善導寺は、正式には光明山 悟真院 善導寺(こうみょうざん ごしんいん ぜんどうじ)と呼び、
京都の浄土宗総本山知恩院の直末のお寺です。
開山は、江戸深川霊巖寺の雄誉松風霊巖上人の弟子、教誉霊呑上人(きょうよれいどん)です。
正保元年3月(1644)信州松本より松平直政公に随従して創立開基しました。
当時の堂宇の様子は、寛延2年(1749)の堂宇・諸記録焼失により不明ですが、
雲陽誌によると本堂は出雲神門郡大津村から移築したもので
極めて壮麗なつくりであったと述べられています。
その後わずか3年後の宝暦2年(1752)に再建しています。
そしてその本堂も大破し、弘化2年(1845)に現在の本堂が再建されました。
明治9年(1875)には現在の松江地方裁判所、明治11年(1878)から12年(1879)にかけて
松江中学の仮校舎として使用された時代もありました。
現本堂の広さは七間半四面(約113畳)あり、ご本尊は阿弥陀如来立像(光背に観音勢至両菩薩)です。
須弥檀(しゅみだん)の両燈篭は野中銀七(小林如泥の弟子)作であり細やかな作りをしています。
本堂大間には龍虎相打つ(十八丈・作者不詳)の墨絵が圧倒的な迫力で描かれています。
善導寺境内には稲荷堂があります。稲荷崇拝は松平家代々の家訓であり、六代宗衍(むねのぶ)の時代には各寺々の火災が多く発生し、稲荷神社を熱心に信仰すれば自らその予告を感じとることができると奨励されたと言われています。春と秋には神社の祭礼が催され、和多見の貸席時代にはこの付近が最も賑やかでありました。その稲荷堂には安政4年(1857)荒川亀齊作(注1)の白狐一対があります。また、当時の貸席の女性たちが奉納した絵馬も掲げられています。
(注1) 荒川亀斎(あらかわきさい 1827‐1906)は島根県松江市横浜町出身の彫刻家である。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。